マリールイズ

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マリールイズ(旧字表記:マリイ・ルウヰズ、本名:相原美禰、1875年11月29日 - 1956年12月27日)は、大正昭和に活躍した美容師、服飾コーディネーター、美容学校経営者。

宮家の洋装担当、洋髪の普及、後進の育成など幅広い実績から、日本の近代美容の母と称えられ、1956年に美容界初の「藍綬褒章」を受章した。

 

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マリールイズ

 

略歴

1867年に来日した英国公使館付武官と日本人女性の長女として日本で生まれる。

10歳まで麹町の公使館で育ち、父の死後の1892年、叔母(父の妹)の養女となるためパリに渡る。

出征した兄の訃報を聞き、日本にいる家族を養うために美容の道へ進むことを決意。2つの講習所(メゾン・ポット美容学校、ラ・モット美容学校)で西洋の美容技術全般(髪、化粧、衣装及び化粧品製造)を学ぶ。

卒業後、両校の講師に就任。同時に新たな美容術の研究にも取り組み、結髪師マルセル・グラトーに焼きごてによるマルセル・ウェーブの指導を受ける。

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マルセル・グラトー

 

1911年に帰国。

1912年2月、赤坂田町で美容所(当時は美顔術治療所とも呼ばれた)を開業。栗野慎一郎駐フランス特命全権大使の計らいで各宮家の服装の顧問係を務め、着装や平時の帽子の被り方にいたるまでアドバイザーとしての役割を果した。

同じ頃、庇髪用の付髷「ルイズ髷」を発売。(最安のものでも1圓10銭と高級品だった)

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1913年、日本初の西洋舞台『トスカ』上演のため、七代目松本幸四郎川上貞奴ら出演者の、かつら・衣装・着付けの指導顧問を担当する。

1915年2月、日比谷有楽町に日本初の本格的西洋美容院「巴里院」を開業。一般美容、婚礼美容、美顔術、美爪術等、さらに化粧品も製造販売する日本初の本格的な総合美容院として、華族、外交官夫人、上流階級夫人が顧客となった。

同年、日比谷に日本初の美容講習所「巴里院講習所」(現マリールイズ美容専門学校)を創設。後進の育成に着手する。(それまでにも個人的な指導は行なっていた)

日本人の髪質にあうようにマルセル・ウェーブを改良。皇族・華族の髪型としてだけでなく、庶民の間でも大流行した。

その後も洋髪の創作に取り組み、「行方不明(髷無しの俗称)」「オールバック」「片耳隠し」 等を発表した。また、数々の化粧品を開発製造して発売した。(美顔水、美顔白粉、白色美肌水、美顔ユーマ、美顔石鹸)

1916年、向井松三郎を養子に迎える。

1918年、巴里院を増築。 

1919年2月~12月、最新技術の視察と化粧品の研究のために渡仏。

1921年、「巴里院子供洋服部」を帝国ホテル前に開業。

1922年頃、合資会社マリールイズ洋服店設立。経理担当者の巨額横領により傾いた店舗を大物経済人・文化人らが出資・支援した。

1923年、関東大震災により、両店舗が焼失。再興を美容家の早見君子に託し、自宅のある麻布区に「マリールイズ化粧院」「マリールイズ美容講習所」を開設して後進の育成に専念する。

1924年1月26日、皇太子裕仁親王ご成婚。良子女王のお仕度を承る。(それまでも1912年より宮家皇族のご成婚時のローブデコルテを担当している)

養女の相原ます(1898年生。のちの千葉益子)を後継者として育成。(公式サイトでは息子の配偶者としているが未調査のため保留)

 

 

1926年10月、パリで日本雑貨店を営んでいた息子松三郎が病の為帰国。1929年2月没。

1929年、法改正により、六本木に東京府知事認可法人「マリールイズ美容女学校」を開校。

1937年6月〜12月、千葉益子と共に世界一周の旅へ立つ。

1940年、パーマネントウェーブが国禁となり、美容院出店も不可能なため、女学校を休校。

1945年3月10日、女学校が東京大空襲で焼失。

1947年、千葉益子が全日本美容連盟副理事長・東京都美容師組合長に就任。

1947年、結婚式場「明治記念館 」の専属美容師兼ドレスコーディネーターとなる。千葉益子は美容部門担当。

1948年、新宿御苑前に「財団法人マリールイズ美容学院」設立。同年「株式会社美容マリールイズ」設立。

1948年より美容資格は免許制となり、東京都美容師資格取得第1号はマリールイズ、第2号は千葉益子に与えられた。

1950年第三皇女孝宮和子内親王殿下と1952年第四皇女順宮内親王殿下ご婚儀の際に千葉益子がお仕度を承る。

皇太子明仁親王立太子礼。皇后陛下の美容担当を「美容マリールイズ」が担当。千葉益子は皇后陛下付美容師、結髪は益子の次女記代子が担当。

1956年、マリールイズが日本の美容界の発展に多大な功績を残したとして、美容界初の「藍綬褒章」を受章。

同年12月27日没。

 

1960年、第五皇女清宮内親王殿下ご婚儀、昭子・記代子姉妹がお仕度を承る。

1963年、千葉益子が藍綬褒章受章。

1964年、常陸宮殿下ご婚儀に際し、華子妃殿下のお仕度を昭子・記代子姉妹とマリールイズの姪の千枝子が承る。

1967年、株式会社百日草が第1回「千葉益子賞 花嫁着付コンクール」を開催。千葉は当初は冠となることを辞退したが説得により折れた。

1970年、千葉益子が勲五等宝冠章叙勲。

1971年6月16日、千葉益子73歳にて逝去。正六位に叙せられる。

 

以降、親族がそれぞれマリールイズを名乗り、功績を挙げている。

 

共著

『ひとりでできる家庭の美顔術』

著者:マリイ・ルウヰズ、千葉ます子

大正6(1917)

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ひとりでできる家庭の美顔術 - 国立国会図書館デジタルコレクション